2010/08/22

天若湖アートプロジェクト “あかりがつなぐ記憶”

8月7〜9日に開催されていた天若湖アートプロジェクト2010に
ラジオメンバー+お友達で行ってきました。

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天若湖アートプロジェクト2010<あかりがつなぐ記憶>

「あかりがつなぐ記憶」は、日吉ダム・天若湖全体を舞台にした壮大なアートです
8月の夜、2晩だけ、水没した天若集落(約120戸)の家々のあかりが、ダム湖面
に浮かびます
時空を超える幻想的なあかりをぜひ体験してください。

場所:京都府南丹市、日吉ダム周辺
http://amawakaap.exblog.jp/
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期間中は「桂川で遊ぼう」ワークショップや地域の子ども作の足元灯
「あかりのみち」など、光や自然とふれあえる様々な企画がされていました。

さて道中。
向かう先は日吉ダム周辺。
ん?周辺?

どこ???

持ってきた地図もアバウト過ぎて指しているのは道なき道…
地元の方に道を聞いて(それでも迷って)やっと着きました。
ドライバーさん、ごめんね!

それではメインのアートプロジェクト。
水面に青く淡い光が無数に浮かんでいる様子は
ベタな表現ですが、幻想的。




車で湖周を移動したりちょっと歩いたりして色んな角度から見て回りました。
橋の上や木々の奥から眺めていると、周辺の景色と淡い光が色んな表情を見せて
くれました。

最初は単にキレイだなぁと感じていたものが、
地元の方と少しお話して「あそこに小学校があったんや」などなど、
聞いているうちにあの光は幻想なんかじゃなく、
実際に人間の営みがあった場所なんだという思いがしてきました。



考えてみればプロジェクトの目的はいたってシンプル。
「そこに天若集落という人々の暮らしがあったことを知ってほしい」

資料で読むのではなく、模型で見るのではなく、
実際にその場所で人の息づかいを感じる。
そうすることで、すぅーっと体に入ってくる実体験に近い感覚がありました。

このアートプロジェクトの大切さは、そんなところにあるのかも知れません。



移動中にカメラ好きのおっちゃん達と遭遇、
毎年このイベントを撮影しに来ているとのこと。
「イベント主催者さんがキレイに見えるように頑張ってくれているんだから、
わしらはそれをキレイに撮れるように頑張らなあかん。」
というお言葉、色んな楽しみ方がありますね。

最後は林道を1kmほど歩いて湖のふもとまで。
夜風がとっても心地よく夏の夜とは思えない涼しさの中で、
しばし思い思いの時間を過ごしました。




ただ、自然っていいなぁと思うには何かが違う違和感。
対岸には管理棟が煌々としており、私たちはコンクリートの上。。
ん〜、ダムやもんな。。

多くの方の尽力で運営された天若湖アートプロジェクト2010。
携わった方々と、紹介してくれた下村泰史先生に感謝いたします。

このプロジェクトが来年以降も続けられていくことを願っています。

完山 祐毅

2010/08/17

肌で感じること、大切にすること

8月16日放送分では昔ながらの楽しみ方を考え、
日々実践しておられる加藤わこさんに来ていただきました。
→加藤わこさんについての詳しい情報はこちらを〈加藤わこ三度笠書簡

冒頭は「ほんとの自然との関わり方」について
ご自身の体験された驚きのこどもキャンプについてからお話ししてくださいました。
要旨は「本物の自然に出会う場がどんどん減っているね」
「本物に触れないと、愛着って沸かないよね」
「水族館で見る生態を見て、愛着がわくのか、教育になるのか?」
というあたりだったのですが、6分では伝え切れなかったこと、
オフレコで心に留まった言葉があるので、それを少々記します。

“ケガをしたっていいんじゃない?スリルも楽しみの1つじゃない?”

まず林と樋口が驚いたのが、大人たちによって囲われた川の中で遊ぶということ。
このキャンプの目的は「安全に何事もなく楽しむ」ということで、こどもは絶対に
ケガをしてはいけない(させてはいけない)らしいです。
囲いから出ようとした子がいたら、厳しく怒られるとか。
私たちはすでにここに疑問が。私たちが体験したキャンプって、元気のいい子の半分は
大なり小なりケガをしていたんじゃないでしょうか。絆創膏はみんな持参だったし、
言葉にはしませんがある意味では擦り傷程度の負傷は、前提だったのではないでしょうか。

そのうちにちょっと大きなケガをした子が出てきて、すると少し大きな絆創膏を
持ってきた女の子が活躍することがあって…という光景が思い出されます。
私も男の子とやんちゃに遊ぶ子どもだったので、かすり傷や打ち身は負って当たり前
という感覚だったように思います。そもそも危険な岩場を歩いたり、髪の毛に草が
いっぱいつくようなところをくぐったりするのが楽しかったのではないでしょうか?

林が「キャンプはそういうスリルが楽しいよね。あと、海外旅行なんて行けば
トラブルなしのほうが珍しいし……。」と言っていました。まさにそうですよね。
自然の寛大なスリルで楽しむことと、外国でのヒヤッとする危険を乗り越えること。
全く同じだとは思いませんが、通じるものはあるかもしれません。

社会に出れば出るほど、スリルどころか危険に遭遇することは増えるでしょう。
子どもが元気で乗り越えられるケガくらいは、大目に見てほしいと思います。
それをたくましいね!ってほめてあげてほしいです。むしろあまり大切に
育てすぎてしまうと、弱い大人になってしまいそうです。

“ほんとの自然と出会うこと。研ぎ澄ませて遊ぶこと”

そして話は及んで、ものを愛するということについて。
大人によって囲われた川は、こども達にとってどんな「川」に映るのでしょうか?
私ははっきり言って、それを「川」って言ってほしくありません。
わこさんも林も同意見でした。

川というのは、緩やかな流れがあったり、深みがあったり、急に冷たい水の流れが
あったり、静かな水面で石をひっくり返すと変な魚がいたり…その他色々。
ちょっとした緊張の中、発見だらけで五感を働かせて遊べるところが川だと思います。

また「キャンプで汚れた食器を洗うとき、合成洗剤はダメでしょう。川が汚れるし
第一、洗剤は自然のものではありません。砂で洗おうよ、十分きれいになるし、
自然にも優しいよ」という、わこさん。
まさにそうですよね。せっかく大自然の中にいるんだから、油汚れを洗剤とスポンジで
ゴシゴシ…という台所とは違う炊事をしたいです。そしてそうすることで洗剤の怖さや
川を大切にする気持ちが芽生えるのではないでしょうか。

山にいろんなものを持ち込んで、その中で町の生活をすることは
「自然を体験すること」ではありません。自然の雄大さを感じながら、
人間の小ささを知りながら、1日を生きてみる。大きな準備は必要ないと思います。
できるだけ自然に合わせて過ごすことが自然を体験することではないでしょうか。

“愛するとき。そのもののことを真剣に考えられるとき”

そして話はものとの関わり方から愛することについて。
なんでも本物に触れていなければ、そのもののことを大切に考えることは出来ない
という話になりました。
つまり本物の自然に触れていなければ本当に自然を知ったとはいえないし、
本当に知らないものをこころから愛することは出来ないということです。

先ほどの話で言えば、囲われた川の中で遊んだ子は、川の生き物や水のことを
真剣に考えられるか…ということです。
そのものとじかに触れ合っていないと、うわべだけではなく心から愛することは出来ないし、
そのためになにか行動するということもできないのではないかということです。
これは自然だけではなく、街についても言えることです。

わこさん曰く、「車で通りすぎる街を愛することが出来ますか?道を歩くからこそ、
街に愛着がわくのではないですか?結局じかに触れて愛するということは、
お金もかかりませんが、とても地道なことなんです」と。
たしかにそうですよね。キャンプでも、連れて行ってもらったきれいな場所よりも、
自分で見つけた石の下の昆虫の住処のほうがドキドキします。
街でも教えてもらった場所よりも、自分で発見した場所の方が特別な気がします。

つまりはゆっくりでも地道に触れ合っていくことが、
そのものを愛するための一番の特効薬ということです。
それが明日、自然を守るため、街を元気にするための第一歩となるということでしょうか。

……考えさせられます。
「歩くまち京都」。まさにそうですよね。
かたや「内陸型水族館」……。考えさせられます……。
とりあえず、五感を研ぎ澄ませて街をあるいてみますか。
なにか発見があるかもしれない!!

それではわこさん、ありがとうございました。

樋口

2010/08/07

水族館シンポジウムの感想+α

第17回の放送で、梅小路公園の未来を考える会さん主催のシンポジウムに参加して
特に心に残ったことを少しだけお話しました。とても濃い内容でしたので、
短い時間の中で伝えきれなかったお話がまだまだありました。もう少しだけ。
第17回のラジオの放送はこちらから

考える会の主催者のお一人、法然院の梶田さんが合間にされた短いお話。
『法然院(森のセンター)では、毎年ムササビの観察会をしていますが、
毎回ムササビが観られるというわけではないのです。
観られないこともある。それが自然というものなのです』

子どもたちに(大人にも、ですが)動物園や水族館に行けばいつでも観られる、
でもそれが当たり前だと思ってほしくないな、ということです。
動物だっていきものです。こちらが観たい!と思ってもその通りにしてくれるとは
限りません。でもショーのように「行けば観られる」という考え方だと
本当の自然がわかったとは言えないのではないでしょうか。

また、それにつながるのですが、中村桂子さん(JT生命誌研究館館長)のお話で、
 『(いのちの輝きとは・・・という話からの流れで)いのちっていうと、
輝きや美しさという部分だけではないんですね。そもそも、生きるということは、
めんどうなことを受け入れることで、でも今の時代、苦労せずともなんでも
ボタン一つで出来てしまうことが多いですね・・・』

テレビのリモコンにしろ、全自動洗濯機にしろ、ボタンを押せば
すぐさまやりたいことができてしまう、便利な世の中になりました。
そういった便利な機能を使うことで、その分、他のことに時間を回せるといえば
良いことにも感じられますが、それは「手抜き」をしているとも言えるのです。
何の努力をせずとも豊かさ・楽しみを得られる。そんなことが当たり前の世の中に
なっているのではないでしょうか。もちろんそれを全否定するわけではありませんが。
そういった社会のなかで、水族館や動物園が求められているような気もします。
めんどうなことも多いですが、そこで思考停止に陥らずに、
みんなでいい方法を考えていきましょう。と水族館の話につながりました。

また、中村さんは動物園や水族館で非日常的な動物に触れる前に、
自分の身近にいるいきもの、昆虫や植物などをじっくり観察することも
大事だとおっしゃっていました。
そういった身近のなんてことないものを大切に見守ることのほうが
「いのちの大切さ」を実感できるような気もしますね。

ゴリラの研究者である山極寿一さんは、動物園についてのお話も。
動物園はできてからしばらく動物の収容施設でした。
動物にとって居心地のよい場所を作ろうとしたのは100年以上経ってから。
ゴリラも飼育しはじめてから子どもを産める環境になるのに100年かかりました。

水族館は動物を訓練させてショーとして魅せる、まだその域から出ていません。

環境や生物多様性などに配慮を見せる京都という都市に新たに水族館をつくるなら、
ものすごい覚悟の上でやらなければならないでしょう。
また、ショーというものは、見る側に誤解を与えやすいものです。
テレビなどで放送される動物を擬人化したようなものでも、
誤った情報を流していることがあります。

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梶田さんのムササビの話で思い出しました。以前カナダのイエローナイフという町へ
オーロラを観に行くツアーに参加しました。イエローナイフはオーロラが見える町として
世界的に有名なところです。

オーロラを観るツアーですから、いちばんの目的は「オーロラ」です。
でも、オーロラは自然現象です。太陽から飛んでくる粒子が、地球の周りを囲む大気圏で
酸素などとぶつかり、いろいろな色で発光します。当然のことながら、条件が揃わないと
観られないこともあります。

お金を払っていくからにはなんとしても観たいと思うものですが、ツアー3日間の設定で
観られずに帰らなければならないこともあるそうです。もちろんツアーの概要にも
免責として「観られないこともある」と書いてあります。

私の行ったときは運よく観られましたが、観られなかったらなんだか納得いきませんよね。
でも、それが自然なのです。思うようにはならないから、自然なのですね。
そう思うと、人間も自然の一部。人を思うように動かしたいと思ってもそうはいかない、
それも納得できる気が。

 
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